実は今回の旅行で熊本を訪れたのは、この「田原坂西南戦争資料館」を訪れたかったから。鹿児島1日目と書きましたが、朝は熊本におりました!!
- 「田原坂西南戦争資料館」で歴史を学ぶ!
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西南戦争と田原坂、西郷隆盛を改めて学ぶ
官軍と薩軍の戦いの地
皆さんご存じかもしれませんが、ここで西南戦争の復習を少しだけ。
といっても歴史の勉強が足りない私は、熊本県の公式観光サイトから引用させていただきます!!
西南戦争は明治10年(1877)、西郷隆盛率いる鹿児島士族が起こしたわが国最大の内乱で、明治維新の総仕上げともいうべき役割を果たした戦争です。熊本はほぼ全域が戦場となり、熊本城の炎上、田原坂の激闘がよく知られています。
熊本県公式観光サイト もっと寺子屋 No.009
この西南戦争と田原坂の関係は、というと、熊本城を目指す官軍と薩軍が激戦を繰り広げた地の一つが「田原坂」なんですよね。
資料館で当時の戦いの様子を見て思ったことは、圧倒的な装備と資金力の差!
官軍の装備に比べて薩軍の装備は一昔前って感じなんです。。勝てる気配を感じないレベルで。。
ここは高瀬(玉名)から熊本へ大砲を運ぶ唯一のルート。薩軍は多数の塁を築き濠を巡らして、官軍を待った。しかも街道は丘陵の腹をえぐるように蛇行曲線を描いた凹道で、下から攻め登ろうとする官軍は前方の見通しが効かず、容易に進むことができなかった。実はここも清正公が、北の備えとして築いた拠点だったのである。
薩軍は薩摩示現流の猛烈な必殺剣で斬り込んだ。官軍は狙撃兵を配して、これを撃ったが、官軍は、一の坂・二の坂・三の坂と三つに分かれる田原坂の最後の300Mを越えられなかった。雨も降り続いた。
(中略)
しかし雨は官軍に味方した。薩軍の銃は雨に濡れると不発になる。また、軍服、靴を備えた官軍に、木綿のかすりと・・・わらじ姿の薩軍である。次第に体力を消耗した。
官軍の総攻撃の前に三月二十日、田原坂は終に陥ちた。その後薩軍の敗走はさらに続く。
西郷以下薩軍幹部が、鹿児島・城山で自決したのは半年後の九月二十四日のことだった。
熊本県公式観光サイト もっと寺子屋 No.009
西郷隆盛は何を考えていたのか
歴史に詳しい方や西郷隆盛ファンの方に怒られてしまいそうですが、私が一番に考えたことは、ことはこれでした。
西郷隆盛は、近代日本の礎となる明治維新の成立に多大な功績を残した人で、木戸孝允とともに薩長同盟を結び、江戸幕府を倒して日本の新しい時代を築いた人だ、という認識でした。
しかし、知識がない私は、近代日本を目指した西郷隆盛が、なぜ官軍を相手に内乱に踏み出したのか、が理解できなかったのです。
どのあたりから明治政府と考え方のずれ?が生じ、西郷隆盛は何を考えて戦っていたのだろうか、と。
といっても、私の解釈や理解でしかなく、それを偉そうに語りたいわけでは決してないのでこのあたりで終わりにしたいと思います!汗
でも資料館を訪れなければこのような疑問をいただくこともなかったですし、考えるきっかけもなかったと思うので、とても良い経験だったなと思いました!
ぜひ旅程に組み込んでみてください!
資料館周辺の景色は美しい
美しい風景を見ながら資料館周辺をぐるりとお散歩しました。
上記にも書かせていただきましたが、資料館でいろいろな思いを感じた気がして、とても考えさせられました。
解釈は間違っていたりすこし飛躍していたりするかもしれませんが、
自分の人生をかけて成し遂げたいことを見つけ、強い意志と行動力で自ら道を切り開くことが、自分にはできるのでしょうか。
誰かの強い気持ちを組んで誰かのために自分を投げうってまで行動することが、自分の人生ではあるのでしょうか。
どんなに強い志を持っていても成し遂げられないことがあることを受け入れられるだけの度量が、自分にはあるのでしょうか。
気持ちよさそうに日向ぼっこをする猫ちゃんに癒されながら、ここに来れて良かったと改めて思った朝でした。
さぁ!鹿児島に行きましょう!
では、今日もこだわって行こう!